オリジナル

こんにちは。今日も中古車の情報に役立つであろう日記を更新しま~す!


オリジナルのイソ社製モデルでは、モーター・サイクル用の238㏄9・5馬力だった。


しかし、このイソ版のイセッタは比較的短命で、1952年から55年までの3年間生産されただけで、むしろ、BMWイセッタとして、名をあげることとなりました。


また、フランスでも、一時ヴェラム社(VELAM)がライセンス生産するなど、イセッタは、本国のイタリアよりも外国で人気を高めるという皮肉なこととなりました。


BMW版は、はじめBMW・R25モーター・サイクル用の空冷・単気筒、OHV、247㏄、12馬カエンジンをモディファイして取り付け『BMWイセッタ250』として55年にデビューしたが、56年からは、297㏄13馬カエンジンつきの『イセッタ300』も発売されて、1962年までに両モデル合計16万1728台という多数が生産されました。


これで車重は360㎏最高速度は85㎞hというささやかなものだったが、戦後のヨーロッパの耐乏型のモータリゼーションにはぴったりで、各国でひっぱりだこの人気をよびました。

大きな特徴

イセッタの大きな特徴ともなっているこの正面のドアは、構造上、両サイドにドアをつけるのがむつかしいために考えられたものだが、同時に縦列駐車のせまいスキ間に、頭から直角につっ込んで駐車して、直接舗道におりられるという便利さもある。


四面が、曲面の窓に取りかこまれており、ルーフはたためるキャンバス製。


気泡のようなユーモラスなスタイルは"バブル・カー"とよぶのにふさわしい。


エンジンとドライブ・トレーンは、せまい間隔の後輪のすぐ前方にマウントされて、デュプレックス・チェーンでデブのない後2輪を駆動するようになっていました。


今日は以上です。


ステキなトヨタ 中古車を探すネットサーフィンでもしてきます。

前回の続きです

イセッタは基本的には4輪だが、ホイールベースは1.5mと短いのに対して、前輪のトレッドは1.2mもあり、逆に後輪のトレッドは0・5mと極度にせまく、デファレンシャルがない。


フレームは、ごく簡単なペリメーター・タイプで、サスペンションは、前輪がゴムのねじれを利用したデュボネ式の独立懸架。


後輪は、4分の1リーフ・スプリングによるリジッドとなっています。


ホイールは4・50-10というスクータなみのサイズです。


ボディは、全長2・25m、全幅1・34m、全高1・32mというずんぐりとしたユニークなプロポーションをもち、シートは並列の2座。


ドアは、正面に幅いっぱいにあり、ここから乗り降りする。


このため、ドアの内側についたステアリング・ホイールも、一緒にスウィングするので、コラムはいくつかのジョイントでつながれています。


これの中古車があったら是非とも欲しいですね~。

手軽なモデル

1950年代のはじめから、ヨーロッパでは、いわゆるミニカー、キャビン・スクーターとよばれる、安くて、手軽なモデルがつぎつぎと姿を見せて人気を集めた。


イセッタ、ゴゴモビール、マイコ・チャンピオン、メッサーシュミツト、ツンダップ・ヤーヌなどは、その代表的なものです。


戦後の再スタートに出おくれたBMWも、1955年にイタリアのイソ社から、キャビン・スクーターのイセッタのライセンスを買い『BMWイセッタ』として売り出しています。


そして、トヨタ 中古車ですが、色々探した結果・・・やはりどれも魅力的だなあと思いました。


大きな魅力

こんにちは。今日も中古車情報に役立つお話・・・♪


富士1000㎞レースでもトヨタ2000GTに次ぐ2位を獲得、続く富士24時間レースでもトヨタ2000GTとともにデイトナ・フィニッシュを飾っています。


トヨタ・スポーツ800は、メカニズム的に誇れる所は何ひとつありません。


だが、そのことが逆に大きな魅力となっています。


可能な限り既存のパーツを使い、整備性がよく、しかも好燃費、それでいて俊敏な走りを楽しめる・・・。


ライト・ウエイト・スポーツの原点がそこにあのです。

空力の追求

今でこそ空力の追求は珍しくないが、トヨタ・スポーツ800は、設計当初からCD110・35以下を意識してデザインされていたのです。


この軽量かつ空力的に優れたボディをもつトヨタ・スポーツ800はモータースポーツの世界でも大活躍した。


船橋サーキットのオープニング・レースでの故・浮谷東次郎による奇跡の大逆転劇を始め、耐久レースでも常に上位入賞を果たしています。


1966年の第1回鈴鹿500㎞レースでは、無給油で500㎞を走り切り、堂々の優勝を飾った。


こういったのを知ると、ますますトヨタ 中古車が欲しくなります。

国際収支が急激に悪化

中古車検索を辿って発見したのですが、商工省型標準型式自動車わたしたちの国の自動車工業がフォード、GMに圧倒されてしまった昭和3、4年になると、わたしたちの国の国際収支が急激に悪化たそうです。


そのため商工省は、国産品愛用、輸出品愛用、輸出振興策を積極的にうちだし、国産振興委員会を設置しました。


昭和4年9月の商工大臣の諮問に対し、同委員会は、昭和5年5月に次の答申を行いました。


それは、国際収支、国防上の見地から自動車工業の確立を緊急だとして、


(1)当初製造に着手する自動車の種類は貨物自動車および乗合自動車を目標とすること。


(2)製造規模は少なくとも今後5年間において年産5000台程度のものとすること。


(3)製造方法は分業によることとし各部分につき精密なる規格を定め、自動車工場およびその関係工場を一体系の下に統制すること。


(4)現存自動車工場およびその他の工場の設備、その経験等をなるべく利用すること。


(5)本工業の健全なる発達を助長するため、政府において適切なる保護の施策を講じ、なお国産自動車の使用奨励については特別なる考慮を払うこと。


「前掲の外、軍部において必要とする国産の貨物自動車ないしは特殊自動車の民間保存に対する奨励は、直接間接に一般自動車工業の発達に寄与するところ少なからざるをもって、これを存置するを必要とすべし」でした。


このため先にアメリカ車の大量輸入を行った鉄道省が、鉄道省規格の自動車を制定し、国産三社に発注するとともに技術上のあらゆる援助を供与し、自動車工業の確立をはかりだしました。

複雑な形態に進歩

大正から昭和初期にかけて、道路上の交通機関のエネルギーは人であり、人が荷車に積荷をのせ直接ひっぱる原始的な形態から、積荷をリヤカーにのせ、自転車でこれをひっぱるというやや複雑な形態に進歩しただけでした。


歩くことから自転車を使って足を上下することに変っただけであり、エンジンによる自動車はほんの僅かの特権階級ないしは商業車、タクシーに利用されているにすぎませんでした。


こうした状態にあって輸入車の急増とフォード、GMの一大組立工場の建設は、ようやく旧陸軍の保護育成策によって誕生しようとした自動車工業へ大打撃を与えたとのことでした。


トヨタ 中古車が一般化したいまでは考えられない話です。

自転車が急増

当時にあっては、人が荷車をひき、また馬車と牛車がゆきかい、その合間に自転車と人力車が縫うように動いていました。


自動車は全く少なく(同年度で0・03~4%)ほとんどみることができませんでした。


だが大正の終りから昭和の初めには、荷車が大幅に減少し(昭和2年度3割)、かわって自転車が急増した(同年度6割)。


自動車はやや増加したものの1000台のうち6台程度をしめるにすぎませんでした。


中古車情報によると、昭和10年代になると自動車(オートバイをふくむ)が利用されはじめてようやく100台のうち1台に達し、荷車が急減し(昭和12年度1割強)、馬車、牛車も影がうすくなって(同年度5%)自転車時代をむかえました(同年度で8割)。

当時の交通機関

中古車情報によりますと、昭和4年現在でGMは、乗用車8791台、トラックシャーシー8845台、計1万7636台、フオード社は、乗用車5006台、トラックシャッシー5、445台、計1万0451台を生産しったそうです。


その他輸入部品の組立による完成車を加えれば、両社の組立車は2万9338台に達しました。


大正、昭和初期の交通機関の役割をみると、圧倒的な電車、汽車の大量輸送機関を除けば、道路上を動く車は大正初期には荷車が半ば以上をしめ(大正2~4年度6~7割)、2位の自転車(同年度2~3割)をふくめれば、両者が圧倒的でした。